2019年10月9日

 『ラヴ・ストリームス』("LOVE STREAMS")は1984年にジョン・カサヴェテス(John Cassavetes, 1929-1989)の手によって生み出された映画である。この作品は、監督であるカサヴェテス本人が演じるロバート・ハーモンと、カサヴェテスの妻であるジーナ・ローランズ(Gena Rowlands, 1930-)演じるサラ・ローソンという姉弟を中心に展開される。流行作家であるロバートは、ビヴァリー・ヒルズにある自宅に複数の若い女を雇い、まるでフェリーニの『8 1/2』でグイドが耽った妄想の中のような生活を送っている(但し、2階で彼と共に眠るのも若い女だが)。姉のサラは離婚が確定し、親権を得たはずの娘から「ママとは一緒に暮らしたくない」と拒絶され、愛する夫と娘を一度に失ってしまう。ある日、サラが前触れも無くロバートの住む家を訪れ、二人は共に暮らし始める。
 まず、注目したいのが、サラが移動する際に持ち運ぶ大量の荷物である。精神病持ちの彼女は、夫と娘との離別が決まると、パニックを起こして倒れてしまう。そして、医者の勧めで療養のためにフランス旅行へ出掛ける。そのときも、彼女は引越しでもするのかと勘違いするほどの、文字通り抱えきれないほどのトランクと紙袋を台車に載せて移動する。映画のラスト、ロバート宅を出る際、彼女がクローゼットから何着ものドレスを取り出していることから、恐らくその殆どが洋服であることが想像出来る。彼女は自分が身に纏う物、つまり肌に触れるほど親密な物――それも夫と娘と過ごしていた頃からある物――を捨てられないのだ。この「家族」というかつて存在した愛に対する強い思いは、ロバートに向かって発せられた彼女の次の言葉から端的に伺える。

「いいことがある あなたに赤ちゃんを買ってあげる 本気よ 生きていて 愛を注げる物が必要よ 小さな動物でいいの かわいがって一緒に寝て バランスを取るの それで私も また家族に執着できる」

 彼女の情熱的な愛がエゴイスティックであるとは言い難い。しかし、彼女は誰かを愛しているとき、愛する他者との関係性の中に於いてのみ自己をアイデンティファイ出来る。「人々が認めるものから切り離されたアイデンティティ」は彼女の中には存在し得ないのだ。よって、この大量の荷物は過去の愛のメタファーであると同時に、過去に対する執着のメタファーなのである。すなわち、彼女が辛うじてアイデンティティを保つ最後の拠り所でもある。ロバート宅で倒れた際、彼女は彼女の荷物が置かれていない、普段とは違う部屋に寝かされる。すると、彼女はロバートと医者に対して、うわごとのように曖昧な口調で「私が誰か分からないの」と呟く。過去(の人々)と切り離されてしまったからである。
 また、ロバート宅を去り、ケンという新しい恋人の家に向かう際、やはり彼女は荷物をすべて運ぼうとするのだが、ケンの車には入りきらない。「載らない」と言うケンに対し、サラは「じゃあ捨てて」と神妙な面持ちで言い、載らなかった分だけ、荷物を捨てる。彼女が安全で快適なロバート宅を去り、嵐の中に身を投げることを決心したのは大きな運動であり変化だが、過去のすべてを捨て切れたわけでは無いのだ。
 上で引用した台詞のあと、サラは本当に動物――ポニー、ヤギ、ニワトリ、ヒヨコ、アヒル、犬――を買ってくる。動物たちはなかなか言うことを聞かず、すぐに走って逃げてしまう。彼らは一箇所に留まらず、(身体的にも精神的にも)絶えず移動し続けるサラの分身である。だからロバートは、嵐へと立ち向かい、彼らを家の中に必死で引きずり込むのだ――彼らが、愛するサラが、自分の元から居なくならないように。

 動物たちの中で唯一名前が与えられたのが、醜い老犬のジムである。彼は初対面の人間には吠えるが、自分を褒めてくれる人間に対しては物静かで優しい態度を取る。それが気に入ってサラはジムをロバート宅に招くのだが、ロバートはジムを一言も褒めていないにも拘らず、彼には最初から最後まで一度も威嚇のために吠えることは無い。そして、サラが「私が誰か分からないの」と言ったとき、ロバートは「待った 私は誰だ 弟か お母さん ジム 誰なんだ」と尋ねる。
 このロバートの質問の意味をより理解するために、ロバートとサラの関係についてもう少し詳しく言及したい。彼らは姉弟であるが、頻繁に「愛している」と言ったりキスをし合ったり――彼が雇っていた若い女たちよりずっと頻繁に――している。このことから、彼らが近親相姦的関係にあると言いたいのでは無く、それを超えた、精神的な次元に於いての双子なのだということが想像出来るのではないだろうか。彼らは登場人物としては別々の人間だが、異なる意味に置いては同一人物なのである。つまり、ロバートとサラはある個人の「共通した想像上の状況における選択肢」だと考えることが可能なのだ。彼らは二人とも「家庭を築く」という点で失敗している。一方でサラは外へ外へと絶えず動き回り、他方でロバートは自宅に籠る。このように、彼らは常に対照的な態度を取ることで、「選択肢」としての機能を果たしている。
 ロバートが特別の関心を寄せる女性には必ず子供が居る。秘書、一目惚れしたナイト・クラブのシンガーであるスーザン、スーザンの母親、そしてサラ。彼が求めているのは、母から向けられる愛、血縁者による愛なのである(アルビーの母親に関しては、ロバートがアルビーの父親である以上、母としての愛を受け取るのは不可能であるため、彼の言葉を借りるなら「手遅れ」なのである。アルビーを産んでしまった時点で)。「愛は死んだ」と言って愛を諦めた彼は自己の内側へと「退却」していく。よって母や姉といった、自分と血を分けた存在を傍に置きたがるのだ。

 では、先ほどのロバートの質問に戻ろう。彼が姉に対して「私は誰だ」と尋ねるとき、それは自分に対して「私は誰だ」と尋ねるのとまったく同じ作用が働くことになる。そして、彼が自分と繋がりのある人物として挙げるのが、「お母さん」と「ジム」なのだ。彼が自宅に留めた者でその名前を呼んだのは、サラを除いてジムだけである(秘書はアルビーに紹介するとき以外、彼から「秘書」と呼ばれているし、スーザンは家に入れてもらえない)。サラはジムを「誰かに似ている」と言うが、それはロバートなのではないだろうか。ラストで、ロバートはジムが人間になる幻覚を見る。ロバートは狂ったように、ほとんど死にそうな声で笑いながら、人間になったジムに「お前は誰だ」と尋ねる。男は髭面で、肌が小麦色で、何も身につけていない。ロバートとは似ても似つかない。男はその質問には答えず、ただ不気味に微笑むだけである。「お前こそ誰なんだ」とでも言わんばかりに。サラに「私は誰だ」と尋ねたときと同じ作用がここでも働くのである。彼がその質問を他者に向けない限り、質問に対する解答は永遠に得られない。サラは新たなアイデンティティを求めて嵐に身を投じ、新しい恋人と旅立つが、ロバートは自分が誰なのか分からないまま、家の中に留まるのだ。
 幻覚という点で言うと、サラも妄想に取り憑かれることがあったが、彼女のそれは、(物語に於ける)現実とは違う、妄想の世界への逃避であった。しかし、ロバートの場合は、現実の中で、幻覚という形でそれを見てしまっているのだ。彼の家が、妄想の世界のメタファーとなっている。サラが「彼〔引用者注:ロバート〕は私より重症だわ」と言うのは、嘘でも何でも無い。
 ロバートの「病」は徐々に重症化していく。彼の家を訪問する者は、必ず花を持参する。スーザンは一輪の白い花を、アルビーはブーケを、サラは大量の花々を。サラの花々で飾られた部屋を見て、ロバートは「この花は何だ まるで通夜の後だ」と彼は言う。冒頭のサラの台詞に戻ると、彼女は、病人や死人のところへ行くことが自分の仕事だ、と述べている。彼の家の訪問者は、ロバートの「病」を見舞っているのだ。そしてそれが、死人に手向けられる花となった。これは、最後のロバートの姿を暗示している。そこでロバートは、全身を覆う真っ黒いコートを身に纏い、サラに、カメラに、われわれ観客に向かって手を振り、暗いドアの後ろへ「退却」してしまう。愛という「絶えない流れ」を停めてしまったロバートは、棺桶と化した家で死ぬことを選んだのである。

 カサヴェテスは言う――

「やってもいないのにやってる振りをしてる人間には憎悪を感じる。つまり嘘をついていて、しかもわざとそうしている人間だ。ダレきって、ただ惰性で生きてるだけで、創造することや愛することから身を引いてしまった人間は大嫌いだ。そいつらの人生はからっぽで、そんなになっても何か行動を起こすことをまだ恐れてるんだ。そんな奴らはかわいそうだとも思わない。ただもう嫌いなんだ。」

 彼はこの作品を、彼のフィルモグラフィーの締め括りとし(『ビッグ・トラブル』は正確には彼の作品では無い)、5年後にこの世を去っている。『ラヴ・ストリームス』はいくつもの「終わり」を抱え込みながらも、彼の映画の特徴である「突然始まり、突然終わる」という手法を踏襲し、結論を出さぬままエンドロールが流れ始める。『ラヴ・ストリームス』は現実のメタファーでも、どこかで存在していたであろう「想像上の」現実でも無い。朝起きて、歯を磨き、服に着替え、朝食を摂り、家を出て、電車に乗り、映画館に着き、『ラヴ・ストリームス』を観る。そのように連綿と続く生きられた現実の流れの中にあるのだ。この映画を観るということは、この映画を観るという体験を生きることに他ならない。われわれがロバートやサラについて語るとしたら、それは一つの思い出としてである。エンドロールが終わり、場内が明るくなっても、映画は「絶えない流れ」として永遠に続いているのである。




■参考文献
蓮實重彦、彦江智弘ら『CASSAVETES'STREAMS――カサヴェテス・ストリームス』(フィルムアート社)1993.
 レイモンド・カーニー(梅本洋一訳)『カサヴェテスの映したアメリカ――映画に見るアメリカ人の夢』(勁草書房)1997.
ja.Wikipedia.org(ジョン・カサヴェテス)
http://howardhoax.blog.fc2.com/blog-entry-57.html

2016年1月31日

 ツイッターをやっていたら(最悪の書き出し…)、「女は若いうちはチヤホヤされるが、何故自分がチヤホヤされるのかが分かっていない。自分の容姿のどこかが優れているんだろう、くらいにしか考えていない。しかし、それは愚かな勘違いで、ただ『若さ』によってチヤホヤされているだけなのだ。馬鹿め(大意)」という内容の福満しげゆきの漫画の画像を目にした。まったくその通りである。わたしは中学高校と女子校に通っていたので、チヤホヤされるという経験がまったく無いまま男女共学の大学に入学して驚愕した(最悪…)。18歳の女というだけで、大体のことは許されるし、一人でボーッとしていたら誰かしら構ってくれるし、「大丈夫?なんか悩み事?おれでよければ聞くよー?」だし…。まあ、そのチヤホヤも、次年度に新しい18歳の女の子が入ってきたら急激に度合いが減って、これ以上は減らんだろう、もう底だろう、と思うもさらに3年、4年へと年度を新たにする毎に、確実に減少していくのだけど。元々自分の容姿は悪いという自覚はあったので、これはなんかおかしいと思ったけど、なんせ異性からチヤホヤされるという経験が無いので具体的になんに拠るのかは、一年目の時点では分からなかった。二年目になってすぐ気付いたが。
 やがて、チヤホヤされることがどんなことか完全に忘れた昨年の春、大学を卒業してつまらん会社に入社し、これは…青酸カリ!となるのである。目下在籍している支店に配属された新人はわたしだけで、ほんと、仕事でミスして落ち込もうものならみんながコッソリお菓子をくれ、飲み会では代わる代わるいろんな人が隣の席にやって来て、わたしにだけ個別にお土産をくれ、ほかにもあるけど恥ずかしいのでやめる、とにかくもう何サーの姫だよ、と思う。今年30歳になる先輩が居り、明らかにわたしより顔も声も可愛いし、いつもニコニコしていて優しいのに、この不細工で無愛想な自分のほうがチヤホヤされている。
 23歳の女をチヤホヤする男性はチヤホヤするだけで、自分の年齢とそう大差ない女性と交際あるいは結婚しているから、これは恋愛がどうこうという問題では無く、ポメラニアンかわいいと同じなんだけど、あ、自分がポメラニアンに並ぶほど愛くるしいとは思ってないけど、こういう経験をするにつけ、女は人間では無いという考えがより揺るぎないものとなっていく。「恋愛がどうこうという問題では無く」と書いたけど、23歳に好きって言われたらうれしいんだろうなー。もちろん、30歳から好きと言われるうれしさとはまったく性質を異にする、グロテスクかつ悲哀極まる(皮肉です)理由によって。大学生のときは、「ヘルタースケルター」的意味も含め、アイドルやモデルになったがために、かわいい女の子が凄まじい短期間で消費されていってる…と嘆き悲しんでいたが、かわいくない自分の若さも凄まじい短期間で、凄まじい熱量によって消費されるとは考えもしなかった。
 「23歳の女」として「見られる」身体と、自分のこういうひねくれた性格との間の隔絶とで、また自己が分裂していく。いつまでアイデンティティクライシスなんだよ…勘弁して欲しい。来年度、新しい「23歳の女」となる犠牲者が現れても、わたしの身体は「24歳(あるいは30歳、40歳…)の女」として「見られる」だけで、なにも変わらない。死ぬまで誰でもない。うーん、ゲスのなんたら乙女の歌みたいになっちゃった、と反省したが、そのまえに思い出したのが、椎名林檎の「流行」という歌の歌詞、特に「私の名ならば女/それ以上でも以下でもない」「女の私に個性は要らない/名前は一つでいい/これ以上いらない」という部分を思い出した。全部わかっててやってやってるんだよ、と言わんばかりのかなりドライな口調だが、この歌を、何度も美容整形を繰り返し、華々しいステージ衣装に身を包むのが常である彼女が歌っていると考えると、鬼気迫るものがある。要するに嫌なことばっかりなんですよ。資生堂パーラーに行きたい。

2016年1月24日

 光り輝く選択肢は初めから二重性をわたしに強いており、前提にあるはずの愛情は、形式的な欲望によって否定されたのであった。もともと平面でしか物事を捉えられない=常にあらゆる土地で途方に暮れる身体が、その二重性によってばらばらに引き裂かれる。受動の混乱と悲劇とが、初めて感じた人生の肌触りだった。月が深海へ沈んでも、新しい朝の嘲笑から視線を逸らさなかった。こうしてわたしは生きていた。



 ツイッターにも書いたけど、2015年で面白かった映画ランキングです。新しい映画をほとんど観ないので新旧混合。

1位 トゥルー・ロマンス
2位 安藤昇のわが逃亡とSEXの記録
3位 神々のたそがれ
4位 毛皮のヴィーナス
5位 カイロの紫のバラ
6位 最高殊勲夫人
7位 女は二度生まれる
8位 博奕打ち 一匹竜
9位 刺青
10位 マジック・イン・ムーンライト

 「トゥルー・ロマンス」「安藤昇の~」は優劣つけがたいです。どちらも痛快で、映像としても物語としても面白く、脚本の素晴らしさが際立つ傑作でした。「神々のたそがれ」はかなり衝撃を受けたんですが、4時間あるうちの恐らく半分くらいを寝てしまったので、再見したい次第です。これは町田康と中原昌也のトーク・ショウ含めよかった。いま思えば、泥だらけって感じの人選だな…。
 ツイッターで数名映画好きの方をフォローしていて、その人たちのリツイート含め20人近くの「2015年映画ベストテン」を見たけど、「毛皮のヴィーナス」をランクインさせている人は一人も居なくてわたしはとてもびっくらこきました。「ニューヨークの巴里夫」を観に文化村に行った際、汚い話だけどお手洗いで用を足しているときに壁かドアかに「毛皮のヴィーナス」の広告が貼ってあって、そこにマチュー・アマルリックの名前があり、彼の顔と声と体と表情と立ち居振る舞いが好きなので、彼目的に観に行ったら予想を大きく超えて優れた作品でした。99%が小劇場でのシーンなので制作費めっちゃ安いんだろうけど、たった二人の俳優の演技含め、才能を持った人たちが創り上げたたいへん豊かな映画だと思います。わたしはまったく演劇は好きではないですが、演劇好きな人はハマる気がします。黒澤明の「どん底」、川島雄三の「しとやかな獣」に引き続き、演劇的と評される映画は大体好きだなあ。
 5位以降はほとんど同列です。ウディ・アレンと若尾文子が好きなんだな~というメッセージが強く込められたランキングになってしまいました。「カイロの紫のバラ」は何故か観ておらずDVDで観たんだけど、最後のシーンが圧巻ですね。ウディ・アレンはペドフィリアのド変態だけど、映画のことはすべて分かっている人間なんだと改めて思い知らされました。うつくしい芸術作品というのは、われわれの人生や感情がどんな状況・状態(情態)であろうと関係無く、ただ気高くうつくしいのだということです。だから「泣きたいときに観る映画」「恋をしているすべての人に捧げる映画」みたいなのは本当にクソで大嫌いです。と思ったけど、ウディ・アレン作品ってしばしばそういう扱いをされてしまいがちでウケる。あとこの間「ミッドナイト・イン・パリ」を観ていて思ったのは、ウディ・アレンは結構直截、「(日本で言うところの)ポパイ的人間(=お洒落で、都会的で、ペダンチックで、芸術をネタにかわいい女とセックスするような男)は死んでくれ」と映画で表明しているのに、ポパイ的人間からばかり評価され、「ウディ・アレン映画から見るファッション特集」みたいなのを雑誌で組まれてしまうきらいがあるの味わい深い。こういうこと言うと“自分は分かっている側の人間”みたいな自己顕示っぽくて嫌だけど、まあ、ポパイ的人間よりは頑張って考えているし、その結果全然かわいい女とセックス出来やしないで気持ち悪がられるだけの人生だから、こうやってインターネットの中や似たようなオタク仲間との会話でくらい、“ただ自分よりモテるだけの”善良な人間たちを馬鹿にして得意ぶるのくらい赦されたいね。
 2016年もおもしろい映画をたくさん観られたらうれしいです。映画監督がんばれ~。終わり。
12月観た映画
・スモーク
・マジック・イン・ムーンライト
・スノーマン
・カラー・オブ・ラブ
・イヴの総て
・ジゴロ・イン・ニューヨーク
・妻は告白する

2015年12月26日

 人に言えないことが増えていく。告白した途端、行為は罪となる。ピンク色のやわらかい皮膚に触れるような愛だ。可能性の一つとしての夢を生きているが、痛みがわたしを現実に連れ戻す。
11月観た映画
・安藤昇自伝 渋谷物語
・処女の泉
・叫びとささやき
・スキャナーズ
・ロリータ
・カイロの紫のバラ
・ホドロフスキーのDUNE
・仮面
・魔術師
・オープニング・ナイト
・リトルプリンス 星の王子さま
・リアリティのダンス
・タンポポ

2015年11月16日

 ようやく人生が平坦になってきて、もう何にも囚われず死んでいけると安堵していた。しかし先月くらいから、ようやく逃げ果せたと思っていた誰かがわたしを見つけ、耳元で神の不在を繰り返し囁くのだ。それを一度耳にすると頭の中で残響となり、そう簡単には消えてくれない。またもやどことも知れぬ暗く深い穴に突き落とされてしまった。こうして一生、冷たい地面の上で黴たパン(シュミリゲス・ブロート…)を安ワインで飲み下し、悪酔いして嘔吐、狭い穴底に充満する吐瀉物の耐え難い悪臭の中で眠る日々が始まるのだろうか。他者による救済への期待は失せていた、少なくとも「他者による救済があり得なくて残念だった」と、虫の餌にしてしまえていた。それが、今はとても悲しい。神どころか、家族も友人も恋人も不在の世界、見ず知らずの他人だけのよそよそしい世界。天気の話はするけれど、足の傷痕は見せない。落としたハンカチを拾うけれど、手が濡れているのを見てもハンカチは貸さない。
 何故、みんなと同じように時間が流れないんだろう。

2015年11月4日

10月観た映画
・第七の封印
・夏の遊び
・街の光
・ギター弾きの恋
・フィールド・オブ・ドリームス
・ムード・インディゴ  うたかたの日々
・浮き雲
・マルコヴィッチの穴
・マンハッタン
・フランシス・ハ
・ヴィオレッタ
・道
・野いちご
・バスター・キートンのセブン・チャンス
・夏の夜は三たび微笑む

2015年10月12日

 今までの人生ですごく好きだなと思った男の人が二人居る。具体的にどう好きかというと、食べ物を自分でよそうくらいならなにも食べないでいいってくらい食を面倒臭がる自分が、くだものの皮を剥いて食べやすい形に切り、この人に食べさせてあげたいな、という気持ちになるくらい好きだった。でも二人とも出会った頃には既にわたしではない女の人と付き合っていた。悲しいことだと思った。それだからか知らないけど、自分には「大切なものを失う不安」という感覚が昔から無い。大切なものが自分のものであった試しが無い。どんなに好ましく思っても好意の授受は成立せず、いたずらにわたしの中から流れ出てどこかへ消え、もし好意の生まれる場所が昔の人々が考えたように泉のような姿をしているとしたら、水が注がれないのだからすぐに枯渇する。むなしい泉の周囲に人気は皆無で、泉の中心に立つ水瓶を持つ天使の彫刻だったものは冷たく穢い苔の塊になる。愛に関してとことんツいていない人生だった。「愛に関してとことんツいていない人生だったけど、その代わりにいい映画とか小説とか音楽に出会えたから、そこはツいていたと思う」とこの間、人との会話の中で、発言した。
 わたしはひどくボンヤリしているし、よそ見をしてばかり居るから、重要なサインに気づけないのだろう。いつもわたしが眠っている間に好きな人はほかの女の子とキスをしていて、目覚める前に手をつないでどこか知らない光の中へ行ってしまう。起きても部屋は真っ暗だから、まだ夜かと呟きまた眠る。一度でいいからみんながやっているみたいに好きな人に好きだと言う、ってやつをやってみたかった。

2015年10月6日

9月観た映画
・鬼龍院花子の生涯
・インヒアレント・ヴァイス
・PARIS
・ザ・ショートフィルム・オブ・デイヴィッド・リンチ
・天使のはらわた 赤い淫画
・その土曜日、7時58分
・彼岸花
・ロンドン・ブルーバード