2015年8月17日

 パルプンテというインディポップ・デュオの「透明人間」という歌を聴いた。以前、ヴォーカルの阿久津さんがアコースティックギターで歌っているヴァージョンをサウンドクラウドで聴き、そのときは、かわいらしいラヴソングだなぁ。と思った。歌いだしの「もっとわたしにさわって」という詞が耳に残った。あとYUKIが大好きなんだろうなって歌唱法なのに(なんかこういった意地悪い言い方しか出来なくて最低だけど言うまでもなくこれはいい意味)、YUKIっぽいドラマチックな展開が一切無い曲の構成でおもしろいと思った。
 かわいらしいラヴソングだなぁ。をもうすこし詳述せんとすると、女の子が片思いしてでも相手はその恋心に気づかず、あああの男の子が触ってくれたらその手から伝わる熱とか、触れられたことに対するエロチックな快感で夢(具体的な悪夢では無いけれど、現実感の無さ/離人感を彷彿とさせる必ずしも快くは無い感覚)の世界からわたしの輪郭がくっきり浮かんでもっとしっかりなるのにな、みたいな、触覚的な遅咲きガールみたいな歌だなと思ったのであった。
 が、このヴァージョンを聴くと印象が大きく変わる。「夢のそとへと導いて」という部分に於ける「夢」の「そと」/あとに訪れるのが朝でも現実でも無い。そういった対にある概念へ「導いて」欲しいと望むのでは無く、また次の、正確に言うならより高次の「夢」へ「導」かれることを望んでいる。さらに「もっとわたしにさわって」という詞の持つ強さは緩和され、光が辺り一面に溢れている状態を表す効果音のような電子音が「光にふれて」「光って」「光あふれて」という詞と呼応し、ひときわ大きく響く。「透明人間」である「わたし」は輪郭を欲するどころかもっと透き通って「光」そのものへと変容していく。しかし「光」となってもなお「もっとわたしをわかって」という声は谺し続け、そこに「金色の光があなたを包み込む」「思い出して 風の音を聴いて」「もう泣かないで もう大丈夫」という淡々とした語りが被さる。これがただただ“救い”なんである。光が昇天していくイメージを受ける。いい歌だと思う。きらきらした世界で光ってよかったね。



 追記
 youtubeにビデオクリップがあったので観たら、夜だったね…でも阿久津さんが光そのものになっていた。


2015年8月11日

 三つ歳の離れた兄が居る。日を跨いでしまったが、今日は彼の26の誕生日だった。26にもなれば珍しくもないが、誕生日は家族以外の人間と過ごす日で、今夜は彼も家を空けていた。わたしはいつも通り、20時過ぎまで会社近くのドトールで一服してからゆっくりと帰路に就いた。帰宅して、居間に掛かっている時計を見たのは確か21時頃だった。平生と変わらぬ、サラダと豆腐だけの夕飯を食べ、ビタミンBとCのサプリメントを摂った。それを見ていた母は無言で湯を沸かして紅茶を淹れ、冷蔵庫を開き、テーブルにケーキを置いた。母は家のドアを開くとわたしと兄とは違う世界に入り込んでしまうようで、あまりにも陳腐で安易な予想だけれど、それは恐らく彼女がもう何十年も見続けている「家庭」という夢の中だった。たとえばわたしは中学生くらいからケーキの種類ならチーズケーキがいちばん好きで、嫌いだったショートケーキも食べられるようになった。しかし未だに母が買ってくるケーキは3歳くらいの時分大好物だったチョコレートケーキであり、今夜目の前に置かれたケーキもきちんと、チョコレートケーキだった。という事実がその証左であろう。
 主役不在の誕生日パーティーは瞬く間に終わった。存在しもしない家庭の中で母を演じる中年の女の人はたいへんに滑稽であった。滑稽は愚かとも言い換えられ、その愚かさは同情に値する代物であった。「その愚かさはわが同情を誘った。」と書かなかったのは、過去の自分のため、あるいは過去の自分への愛のため、彼女に対しほんのすこしでも同情することは禁止されたいたからである。故に飽くまでもわたしはただチョコレートケーキの味を感じるわたしとしてだけ存在し、架空の家庭も、娘という役割も、さらに言えばそれらを見守る観客という立場も無視した。母の人へ示せる唯一の愛は、それら夢の住人としての振る舞いを獲得することでは無い(わたしにそのような能力は備わっていない)。彼女から受けた数々の傷を詩的な言葉で飾るという営為ただそれだけである。

2015年8月10日

7月観た映画
・ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち
・刺青
・最高殊勲夫人
・ブエノスアイレス
・幸福の黄色いハンカチ
・浮草