8月観た映画
・しとやかな獣
・ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール
・濡れた二人
・ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
2015年9月21日
2015年9月14日
茶色や黒やぶちの子犬で一杯のショーウインドーの前に立ち止まり、君は子犬たちがとても可愛いことに気づく。一人前の大きさの犬に成長しない、子犬のままでいる犬が飼えさえすればなあと君は思う。君の愛着は控え目である。だからといって、君が生まれつき心の冷たい人間だというのではないーー君は何かと深く本質的に関わるということを欲しないのだーーいずれの場合も長続きしてきっかり二年というように君には思われる。どうしてそうなのか?君はある特定のものと深く結ばれる最後の段階に来て、もう行く時間だと感じるのだ。たとえてみれば、ゲストとして招かれた祝賀会の席で、主人役がもう一杯ブランデーはいかがかと勧めてくれたとき、不思議と素直に応じられないものを感じ取るのに似ている。愛想の限りを尽くして、君はそのように感じてはいない振りをし、楽しくて希望に満ちた雰囲気をできるだけそれまでどおりに保とうとし、「今後」への期待感を殺さないように努める。
ドナルド・バーセルミ「ドーミエ」
2015年8月17日
パルプンテというインディポップ・デュオの「透明人間」という歌を聴いた。以前、ヴォーカルの阿久津さんがアコースティックギターで歌っているヴァージョンをサウンドクラウドで聴き、そのときは、かわいらしいラヴソングだなぁ。と思った。歌いだしの「もっとわたしにさわって」という詞が耳に残った。あとYUKIが大好きなんだろうなって歌唱法なのに(なんかこういった意地悪い言い方しか出来なくて最低だけど言うまでもなくこれはいい意味)、YUKIっぽいドラマチックな展開が一切無い曲の構成でおもしろいと思った。
かわいらしいラヴソングだなぁ。をもうすこし詳述せんとすると、女の子が片思いしてでも相手はその恋心に気づかず、あああの男の子が触ってくれたらその手から伝わる熱とか、触れられたことに対するエロチックな快感で夢(具体的な悪夢では無いけれど、現実感の無さ/離人感を彷彿とさせる必ずしも快くは無い感覚)の世界からわたしの輪郭がくっきり浮かんでもっとしっかりなるのにな、みたいな、触覚的な遅咲きガールみたいな歌だなと思ったのであった。
が、このヴァージョンを聴くと印象が大きく変わる。「夢のそとへと導いて」という部分に於ける「夢」の「そと」/あとに訪れるのが朝でも現実でも無い。そういった対にある概念へ「導いて」欲しいと望むのでは無く、また次の、正確に言うならより高次の「夢」へ「導」かれることを望んでいる。さらに「もっとわたしにさわって」という詞の持つ強さは緩和され、光が辺り一面に溢れている状態を表す効果音のような電子音が「光にふれて」「光って」「光あふれて」という詞と呼応し、ひときわ大きく響く。「透明人間」である「わたし」は輪郭を欲するどころかもっと透き通って「光」そのものへと変容していく。しかし「光」となってもなお「もっとわたしをわかって」という声は谺し続け、そこに「金色の光があなたを包み込む」「思い出して 風の音を聴いて」「もう泣かないで もう大丈夫」という淡々とした語りが被さる。これがただただ“救い”なんである。光が昇天していくイメージを受ける。いい歌だと思う。きらきらした世界で光ってよかったね。
追記
youtubeにビデオクリップがあったので観たら、夜だったね…でも阿久津さんが光そのものになっていた。
かわいらしいラヴソングだなぁ。をもうすこし詳述せんとすると、女の子が片思いしてでも相手はその恋心に気づかず、あああの男の子が触ってくれたらその手から伝わる熱とか、触れられたことに対するエロチックな快感で夢(具体的な悪夢では無いけれど、現実感の無さ/離人感を彷彿とさせる必ずしも快くは無い感覚)の世界からわたしの輪郭がくっきり浮かんでもっとしっかりなるのにな、みたいな、触覚的な遅咲きガールみたいな歌だなと思ったのであった。
が、このヴァージョンを聴くと印象が大きく変わる。「夢のそとへと導いて」という部分に於ける「夢」の「そと」/あとに訪れるのが朝でも現実でも無い。そういった対にある概念へ「導いて」欲しいと望むのでは無く、また次の、正確に言うならより高次の「夢」へ「導」かれることを望んでいる。さらに「もっとわたしにさわって」という詞の持つ強さは緩和され、光が辺り一面に溢れている状態を表す効果音のような電子音が「光にふれて」「光って」「光あふれて」という詞と呼応し、ひときわ大きく響く。「透明人間」である「わたし」は輪郭を欲するどころかもっと透き通って「光」そのものへと変容していく。しかし「光」となってもなお「もっとわたしをわかって」という声は谺し続け、そこに「金色の光があなたを包み込む」「思い出して 風の音を聴いて」「もう泣かないで もう大丈夫」という淡々とした語りが被さる。これがただただ“救い”なんである。光が昇天していくイメージを受ける。いい歌だと思う。きらきらした世界で光ってよかったね。
追記
youtubeにビデオクリップがあったので観たら、夜だったね…でも阿久津さんが光そのものになっていた。
2015年8月11日
三つ歳の離れた兄が居る。日を跨いでしまったが、今日は彼の26の誕生日だった。26にもなれば珍しくもないが、誕生日は家族以外の人間と過ごす日で、今夜は彼も家を空けていた。わたしはいつも通り、20時過ぎまで会社近くのドトールで一服してからゆっくりと帰路に就いた。帰宅して、居間に掛かっている時計を見たのは確か21時頃だった。平生と変わらぬ、サラダと豆腐だけの夕飯を食べ、ビタミンBとCのサプリメントを摂った。それを見ていた母は無言で湯を沸かして紅茶を淹れ、冷蔵庫を開き、テーブルにケーキを置いた。母は家のドアを開くとわたしと兄とは違う世界に入り込んでしまうようで、あまりにも陳腐で安易な予想だけれど、それは恐らく彼女がもう何十年も見続けている「家庭」という夢の中だった。たとえばわたしは中学生くらいからケーキの種類ならチーズケーキがいちばん好きで、嫌いだったショートケーキも食べられるようになった。しかし未だに母が買ってくるケーキは3歳くらいの時分大好物だったチョコレートケーキであり、今夜目の前に置かれたケーキもきちんと、チョコレートケーキだった。という事実がその証左であろう。
主役不在の誕生日パーティーは瞬く間に終わった。存在しもしない家庭の中で母を演じる中年の女の人はたいへんに滑稽であった。滑稽は愚かとも言い換えられ、その愚かさは同情に値する代物であった。「その愚かさはわが同情を誘った。」と書かなかったのは、過去の自分のため、あるいは過去の自分への愛のため、彼女に対しほんのすこしでも同情することは禁止されたいたからである。故に飽くまでもわたしはただチョコレートケーキの味を感じるわたしとしてだけ存在し、架空の家庭も、娘という役割も、さらに言えばそれらを見守る観客という立場も無視した。母の人へ示せる唯一の愛は、それら夢の住人としての振る舞いを獲得することでは無い(わたしにそのような能力は備わっていない)。彼女から受けた数々の傷を詩的な言葉で飾るという営為ただそれだけである。
主役不在の誕生日パーティーは瞬く間に終わった。存在しもしない家庭の中で母を演じる中年の女の人はたいへんに滑稽であった。滑稽は愚かとも言い換えられ、その愚かさは同情に値する代物であった。「その愚かさはわが同情を誘った。」と書かなかったのは、過去の自分のため、あるいは過去の自分への愛のため、彼女に対しほんのすこしでも同情することは禁止されたいたからである。故に飽くまでもわたしはただチョコレートケーキの味を感じるわたしとしてだけ存在し、架空の家庭も、娘という役割も、さらに言えばそれらを見守る観客という立場も無視した。母の人へ示せる唯一の愛は、それら夢の住人としての振る舞いを獲得することでは無い(わたしにそのような能力は備わっていない)。彼女から受けた数々の傷を詩的な言葉で飾るという営為ただそれだけである。
2015年8月10日
2015年7月22日
会社自体に休みが無いので夏休みは交代で取る。そろそろ長期休暇が無いと心だけじゃなくて肉体的に死ぬ、つまり死ぬ。と思ったので先週末から休みを取った。なんとなく、タイに行こうと思ってタイに行くことにした。一人旅は初めてだった。一人で旅行すると告げるとみんなから過剰に心配された。理由はわたしがかなり駄目な人間だからです。
滞在期間は2泊4日。あっという間だった。宿泊したのはラムカムヘン駅前のホテルで、Wi-Fiが有料、アメニティがタオルと石鹸と綿棒くらいしか無い、という点を除けば、バスタブもありお湯も出るし、全体的な経年劣化は見られるが最低限の清潔感は心掛けていますよという気持ちは伝わり、良くはないけど悪くもないホテルだった。駅の下にスターバックスがあったのでWi-Fi使ってこましたるわいと思って入店したけど、Wi-Fi通ってなかった。でも、改札を出て右手にあるCHAO DOIというカフェにはWi-Fiが通っていました。ここもそうなんだけど、バンコクのWi-Fi使えるお店は、商品を買うと店員がパスワードの書かれた紙をくれたり、口頭で伝えてくれたりといったスタイルで、秘密の暗号っぽくてわくわくした(面倒臭いけど)。
観光という観光はほとんどしていない。ほとんどというかまったくしていない。ラムカムヘンは寺院のある区域からかなり離れていたからである。二日目、ラムカムヘンからバスに乗ってカオサン通り(犬の写真の下)へ行ってから大仏かなんか見学しましょうかしらね。と思ったけど、まずバス停の標識に書いてある停車するバスの番号と、ベンチの後ろに立っている壁に書かれているバスの番号とが異なっているし(タイのバスは1~200くらいまであった気がする)、そのどちらにも書いていないバスも平気で停まる。やっと乗ったと思っても、車掌さんは停車駅を一切言ってくれなくて、唯一持っていたガイドブックを開くと「勘を頼るか、地図を見て降りるしか無い」と書いてあり、ふざけるな、人を馬鹿にするのも大概にしろ。とメロスは激怒した。
1時間くらいバスに揺られて、もうここどこなんだろうとボーっとしていたら、見かねた車掌さんの男の子がタイ語で「どこに行きたいの?」というようなことを恐らく訊いてきて、「カオサン」と答え地図を見せたら難しそうな顔をなさるから、早々に諦めて、コップクンカー、バイバイ、と手を振り下車した。車掌さんもバイバイ、と手を振ってくれた(あとで地図を改めて見たら、方面としては間違っていなかったようだった)。結局タクシーに乗った。ぼったくりタクシーじゃないかメーターをぐんぐん見つめた。ぼったくりタクシーじゃなかった。でもタイのタクシーはあんまり安くない気がする。台湾なんかイケイケですからね、その点。
カオサン通りはバックパッカーの聖地だとかで、ウィード感が無くもなかった。ウィード柄のティーシャツが売られていたし。喉が渇いたため開けた造りのレストランとバーの中間みたいなお店に入り、ジントニックを飲んだ。そのあともバーを転々としてタイビールをはじめとした酒を飲み続け、身も心も大仏からは遠ざかっていったのであった。南無。
というような具合に、基本的に歩いては酒を飲み、屋台でご飯を食べ、酒を飲み、読書し、酒を飲んでいた。ビールなら酔わないので鱈腹飲んで食べた。写真にも撮ったが、バーセルミの『哀しみ』というかなり都会的な小説を読んでいた。音楽はオウテカをよく聴いた。徒歩以外の移動手段は、最初は電車に乗っていたが途中からバイクの後ろに乗せてもらう愉しみに目覚め(単純にタクシーのバイク版で、バンコク市内のナウなヤングたちはみなこれで移動していた。制服姿の女の子らは、月に腰掛けるみたいな塩梅でバイクに乗っていた。わたしはやはり怖いので、しっかり跨って運転手の肩に手を置いていたが…)、専らバイクを利用していた。
そういえば一日目に乗り換えでサイアムという駅で下車した。東京でいう原宿・渋谷ポジションらしいので東京下町のファッションリーダーとして要観察地域だなと思いすこし散歩することにした。駅前にサイアムシティ?とかなんとかいうお洒落ビルが2、3あり、通り沿いに服屋が並んでいる。が、本当にその一区画だけで、あとはいつも通りのタイだった。ちょっと油断すると廃墟があるし。ツイッターにも書いたけど、発展途上国なのでは無くて、国のお偉いさんから仕事として命じられるからビルを建てたり駅を整備したりしているだけで、便利であることとか自国が国際社会の規範に沿って発展していくこととかに対しさほど関心が無い、という印象を受けた。サイアムも、若者たちがニューヨークやらトーキョーみたいなの欲しがってるから、とりあえずこのサイアムシティ建てておくか、もうそれでいいじゃん?ねえ、いいよね、疲れたし寝させてね。という感をひしひしと感じました。サイアムシティ、4階くらいしか無いし。お店もあんまり入ってない。イッセイミヤケのバオバオが入っていた。あとディーゼルとかスーパードライ(アサヒでは無い)。プレイ・コムデギャルソンを着ている人が結構居た。あと、白いティーシャツに黒のプリーツスカートが流行っている模様。制服か?ってくらいみんな着てた。制服か?閑話休題。警察か警備員かそんな立ち位置の人が街にちらほら居るんだけど、みんな街路樹にハンモック張ったりベンチに寝転んだりして勤務中からグースカピーですよ。発展より睡眠ですよ。正しい。先述したバスの車掌をしている男の子も爆睡していて、お客さんが乗ってきても気づかず、運転手に棒でつつかれようやくお金を徴収していました。そしてそのあとまた寝ていました。
気づいたらすごく書いていた。わたしは目に入ったものにすぐツッコミを入れたり感想を述べたりしないと気が済まない気持ち悪い人間なんだけど、一人だったから会話でその時々の感想を消化出来ずこんなことになった。もっと書けるけどもういいや。タイはいい国でした。
もういいやと思ったけど最後に一つ。現実逃避しに来たわけじゃないけど、わたしはタイに居ながらも日本で生きているんだなと思い知らされた。なにも知らない土地や人を含め、この世界で生きていくしかないのだと。嫌なことだと思った。うんざりした。でも本を読んだりカメラのシャッターを切ったりしているときは、そういったすべてから隔絶された限りない自由を感じた。夢を見ている間だけ無垢で居られるのだ。
2015年7月6日
叶美香さんが好きだ。叶美香さんとか松井冬子とかああいった、でっかい美人が好きだ。美人がでっかいとその分美が世界を占める割合が大きくなるから嬉しいのだ。この二人にはいずれ「崖の上のポニョ」のグランマンマーレくらい大きくなって欲しい。グランマンマーレは救いだ。あんなでっかく優しく美しい人が海に居たら最高なのだ。世界のすべてをでっかい美人が抱きしめていて欲しい。ジブリってあんまり興味無いんですけど「崖の上のポニョ」という映画はとても素晴らしいですね。ジブリでいちばん好きです。わたしがかえる海にグランマンマーレが居たらいいと思います。叶美香さんの大きくて白くて柔らかくてあたたかい身体に抱かれて眠りてえ。うどん屋で光りてえ。猫を飼いたいと思っても家に帰って猫がにゃーんとしていたらそれはそれで不気味だと思うが、家に帰って部屋のドアを開けたら布団のうえに(わたしはベッドが嫌いで布団を敷きます)裸に薄いヴェールを纏った叶美香さんが横たわり「まあ、おかえりなさい」と言って微笑んでくれたら、もうそれだけで自分の人生は正しかったんだなと涙するだろう。このくだらない部屋を青い海で満たしてでっかい神様に抱かれて眠るんだ。
意外と大きい子犬と、まるくて舌触りの悪い豆腐。
才能が無いからどの台風もだめだった。喜びの数え方だけが天文学的だった。女は確かむかしサーカス団に入っていたかなんだかで、その舞台化粧の名残か、唇だけばかに赤かった。暗い夜道でもその唇は闇をはじいて赤かった。赤い唇はいつもわたしの聞きたくない言葉を知っているらしかった。聞きたくない言葉が煙になって電信柱に絡みついた。それを見た。浮浪者もそれを見ていた。足元の橋が崩れ落ち、きれいに額装されたすみれの花の絵が川を流れていった。それを見た。浮浪者もそれを見ていた。なにも続かなかった。いつも手紙をくれるときは、深い紫色の便箋を使う女だった。うまれてからただの一度だって、人を殺しちゃいなかったのに。
意外と大きい子犬と、まるくて舌触りの悪い豆腐。
才能が無いからどの台風もだめだった。喜びの数え方だけが天文学的だった。女は確かむかしサーカス団に入っていたかなんだかで、その舞台化粧の名残か、唇だけばかに赤かった。暗い夜道でもその唇は闇をはじいて赤かった。赤い唇はいつもわたしの聞きたくない言葉を知っているらしかった。聞きたくない言葉が煙になって電信柱に絡みついた。それを見た。浮浪者もそれを見ていた。足元の橋が崩れ落ち、きれいに額装されたすみれの花の絵が川を流れていった。それを見た。浮浪者もそれを見ていた。なにも続かなかった。いつも手紙をくれるときは、深い紫色の便箋を使う女だった。うまれてからただの一度だって、人を殺しちゃいなかったのに。
2015年7月4日
2015年6月14日
いつも正確に29日周期でやって来る生理が今月は来なかった。毎日毎日暇さえあれば「妊娠 初期症状」「中絶手術 費用」と調べていた。育ってきた家庭にお金が無くて切ない思いをしてきたから、己の子に同じ思いは絶対にさせたくなかった。そう考えると自分はまだ貯金なんて無いし、無理だなぁ。かと言って自分の都合で生まれつつあった人間を一人中絶して、はーこれで安心安心、明日からも仕事頑張りますね。ともいかない。わたしは。これはもう、この腹の人間と一緒に心中すべきか?と考えに考えあぐねて、もう悩みたくないから、「産休って一年目から取れるのかな…」とズレた方向に悩みをシフトさせていた。そもそもおまえは誰の子だよ。
今日で一週間、生理が来なくなってから。流石にもうおれの人生は終わり。と腹をくくって首もくくって薬局で妊娠検査薬を買った。たったの670円ぽっちだった。レジの店員が男で、何となくニヤニヤしているように見えてむかついた。検査薬は生理用品を買ったときみたいに白い紙袋に入れられた。
駅の薄汚れた狭いトイレに入って、検査薬の箱を開けた。体温計みたいな白い棒状の物体が入っていて、説明書を読むと、薄ピンク色のキャップを外すと半透明のフィルター部分があるから、そこに5秒以上おしっこをかけてくれよな、よろしくな。とのことだった。5秒も出るのか?と思いながらもよろしくと言われたら仕方ないから、説明書に従って完全にびびって弱々しくしか排出されないおしっこをかけた。尿はすごいと思いながら。そしてまたキャップをはめて、水平な場所に置いた。数分経って、小窓みたい部分からじんわり赤い縦線が浮き出てきたら陽性、赤ん坊が居るしるしだと説明書は努めて明るく教えてくれた。結論から言うと、陰性だった。よかった。咳き込むたびにおれはよかった。実によかった。愛を感じた。っていう歌詞すごいよな。「モータープールで俺は見つけた。夏服のなかのひとのいのち」っていう歌い出しも美しい。ずっと「もう多分俺は見つけた」だと思ってたけど。
今はもうノリノリで、シャビーシックでバギーパンツを買ったし、ネスカフェの小洒落た小うざったい小清潔な小カフェで小ブレンドコーヒーを飲んでいるよ。これからパーマネントもかけるしね。つまり、時代遅れなイギリス車に轢かれて死にたいくらい、最高の日曜日の昼下がりってわけさ。
今日で一週間、生理が来なくなってから。流石にもうおれの人生は終わり。と腹をくくって首もくくって薬局で妊娠検査薬を買った。たったの670円ぽっちだった。レジの店員が男で、何となくニヤニヤしているように見えてむかついた。検査薬は生理用品を買ったときみたいに白い紙袋に入れられた。
駅の薄汚れた狭いトイレに入って、検査薬の箱を開けた。体温計みたいな白い棒状の物体が入っていて、説明書を読むと、薄ピンク色のキャップを外すと半透明のフィルター部分があるから、そこに5秒以上おしっこをかけてくれよな、よろしくな。とのことだった。5秒も出るのか?と思いながらもよろしくと言われたら仕方ないから、説明書に従って完全にびびって弱々しくしか排出されないおしっこをかけた。尿はすごいと思いながら。そしてまたキャップをはめて、水平な場所に置いた。数分経って、小窓みたい部分からじんわり赤い縦線が浮き出てきたら陽性、赤ん坊が居るしるしだと説明書は努めて明るく教えてくれた。結論から言うと、陰性だった。よかった。咳き込むたびにおれはよかった。実によかった。愛を感じた。っていう歌詞すごいよな。「モータープールで俺は見つけた。夏服のなかのひとのいのち」っていう歌い出しも美しい。ずっと「もう多分俺は見つけた」だと思ってたけど。
今はもうノリノリで、シャビーシックでバギーパンツを買ったし、ネスカフェの小洒落た小うざったい小清潔な小カフェで小ブレンドコーヒーを飲んでいるよ。これからパーマネントもかけるしね。つまり、時代遅れなイギリス車に轢かれて死にたいくらい、最高の日曜日の昼下がりってわけさ。
2015年5月17日
まったくパソコンをいじるという意識が向くことが無く早?二ヶ月が過ぎんとしている。まともな人間として金融関係の仕事をしている。毎日日が変わる前に眠って(今日は久しぶりにこんなに遅くまで起きている)、朝は6時に起きる。朝餉はフルーツグラノーラ、昼餉は社食、夕餉は煙草一本とサラダとビタミンBおよびCのサプリメント。酒も飲まず博奕も打たず女も買わず、やくざ者には珍しい非常に慎ましい生活を送っている。やくざ者では無いんだけど。こうやってすべてが平らかになって死ぬんだろうかと思う。女は結婚したいと言って、男はもっといろんな女のまんこが舐めたいと言っている。どこに行っても。わたしはもうそういうのがきらいなんだ。飽き飽きしている。最近日増しに言葉がここから離れていく。彼らも飽きたんだろう。碌に相手もしてくれやしないから。「おはようございます」「おつかれさまでした」だけ言ってあとはむっつりだ。何も出てこないのだ。言葉が。すこし前までいくらでもくだらない話をし続けていた。咳き込んで声が出なくなるまで喋って喋って人を笑わせるのに躍起になっていた。それがもう疲れて家で寝ていたくって、豆腐を見てその白さに涙が出てくる。なにも選べなかった。全部嘘だった。
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