2015年3月3日

 引き潮だった。海岸は柔らかくて、どこまでも柔らかく茶色かった。わたしは4歳で、青いワンピースを着て歩いていた。4歳のわたしは青いワンピース姿で、茶色い柔らかな海岸を歩いていた。そこは引き潮だった。青いワンピースが泥濘で汚れて不快だった。母に伝えることが出来なかった。母は夢中で貝殻を拾っていた。大きい貝殻や小さい貝殻を拾っていた母に、青いワンピースの汚れを伝えられなかった。わたしも母に倣って貝殻を拾った。石灰じみた素っ気ない手触りの貝殻を拾った。そのどれもが片側しか無かったが、やがてたった一つ、閉じている貝を見付けた。上下の貝殻が閉じている貝を拾って、無理やり開いた。中には透明の球体が入っていた。母にそれを見せた。母は青いワンピースを汚したわたしを叱った。透明の球体について何も言わなかった。母はわたしの拾った球体については触れず、青いワンピースの汚れのことだけを叱った。
 この出来事から18年の間、透明の球体はダイヤモンドだった。透明の球体がダイヤモンドであることだけが、信じてもよい事実だった。そして18年目の冬、雪の日に、銀座の宝石店でダイヤモンドの指輪を見た。ダイヤモンドの指輪に載っているダイヤモンドは、角が削れて直線的だった。ダイヤモンドは透明の球体で、直線的で店内の照明を反射し、直線的に光って、球体の中に光を飲み込んでそれは、どこかべつのダイヤモンドの中へと、消えていった。18年目の冬、雪の日に、宝石店で失くしてしまうまで、透明の球体はダイヤモンドだった。わたしは4歳で、青いワンピースを着て歩いていた。泥濘を歩いていた。雪が混ざり合っていて、泥の中に、混ざり合っていて、球体だった。直線的な。青く石灰じみた光は、ダイヤモンドの内側で輝いていた。そしてどこかべつの球体の中へと、消えていった。