2015年8月11日

 三つ歳の離れた兄が居る。日を跨いでしまったが、今日は彼の26の誕生日だった。26にもなれば珍しくもないが、誕生日は家族以外の人間と過ごす日で、今夜は彼も家を空けていた。わたしはいつも通り、20時過ぎまで会社近くのドトールで一服してからゆっくりと帰路に就いた。帰宅して、居間に掛かっている時計を見たのは確か21時頃だった。平生と変わらぬ、サラダと豆腐だけの夕飯を食べ、ビタミンBとCのサプリメントを摂った。それを見ていた母は無言で湯を沸かして紅茶を淹れ、冷蔵庫を開き、テーブルにケーキを置いた。母は家のドアを開くとわたしと兄とは違う世界に入り込んでしまうようで、あまりにも陳腐で安易な予想だけれど、それは恐らく彼女がもう何十年も見続けている「家庭」という夢の中だった。たとえばわたしは中学生くらいからケーキの種類ならチーズケーキがいちばん好きで、嫌いだったショートケーキも食べられるようになった。しかし未だに母が買ってくるケーキは3歳くらいの時分大好物だったチョコレートケーキであり、今夜目の前に置かれたケーキもきちんと、チョコレートケーキだった。という事実がその証左であろう。
 主役不在の誕生日パーティーは瞬く間に終わった。存在しもしない家庭の中で母を演じる中年の女の人はたいへんに滑稽であった。滑稽は愚かとも言い換えられ、その愚かさは同情に値する代物であった。「その愚かさはわが同情を誘った。」と書かなかったのは、過去の自分のため、あるいは過去の自分への愛のため、彼女に対しほんのすこしでも同情することは禁止されたいたからである。故に飽くまでもわたしはただチョコレートケーキの味を感じるわたしとしてだけ存在し、架空の家庭も、娘という役割も、さらに言えばそれらを見守る観客という立場も無視した。母の人へ示せる唯一の愛は、それら夢の住人としての振る舞いを獲得することでは無い(わたしにそのような能力は備わっていない)。彼女から受けた数々の傷を詩的な言葉で飾るという営為ただそれだけである。