2014年11月15日

 今月の頭に新橋演舞場で十一月新派特別公演を観た。演目は「鶴八鶴次郎」と「京舞」。恋人と一緒に行ったのだけど彼が勤め先からチケットを譲り受けたとかで、二人とも歌舞伎のことはよく分からず(今回のは歌舞伎じゃないけど)、だのに桟敷席だったためかなりびびりながら観ていたのだけど、初心者にも分かりやすく面白かった。特に「鶴八鶴次郎」は素人目にも演技が上手でした。トークタイムみたいなので出てきた池畑慎之介も言っていたように、勘九郎の声がお父さんにそっくりで驚いた。それと休憩中に彼と話していたのだけど、話の筋がマーチダ先生の「夫婦茶碗」ぽかった。途中で夫婦茶碗が云々という件りもあったし。元は川口松太郎の小説だそうで映画化もされているとか。川口松太郎は「愛染かつら」だけボンヤリ耳にした記憶がある。第一回直木賞受賞者だそうで全然知らなかった。
 昨夜強く感じたことは、わたしは日々同じような思考を反復しているようでいてそれらはすべて少しずつ形を、言葉の選び方を、語尾を変えて流転している。にも拘らず、質問に対する答えとして説明するときにわたしは、それらの異なる思考たちを一つの思考へと圧縮する。更に質問者は「自分なりの解釈」という暴力で以て圧縮された思考をボロボロに踏み潰す。まったく別物になったそれを彼はわたしの心に堆積している思考たちと同一の物と見做し、わたしたちは噛み合わない会話を繰り広げる。噛み合わないから広がらないのだけど。それで昨夜心底うんざりしたのが、質問者がわたしの思考を滅茶苦茶にした挙句、同情やら激励という形で返してきたこと。こんなことがあるから、わたしは人付き合いをどんどん狭めていく羽目になる。もちろん人のせいにしているんでは無く、いちいち傷ついたり、人の意識を誇張して受け止めたりする自分が悪い。噛み合わなさに手を貸しているのは、何よりこういう愚かしい被害妄想だ。